暖かい春の風が吹く。
その風に吹かれて、桜色の花弁がヒラヒラと坂を下って海へと飛んでいく。
真新しい制服に袖を通して、鼻歌を歌いながら桜色の花弁を追うように海へと向かう。
一歩足を踏み出すごとに、二つに結んだツインテールが左右に揺れて、おろしたてのスカートも、それに合わせてひらりと舞う。
きっと今頃新学期を迎えた学生たちが、入学式とか始業式とかの式典で、やたらと長い校長のつまらない話でも聞いている頃だろう。
海沿いにも関わらず起伏の多いこの街は決して住みやすいとは言えず、毎日坂を登ったり下ったりしながら、街の人は学校や会社へと向かう。
僕はそんな小高い丘の上にある、小さな少し錆びれた駅に繋がる線路の上にいた。
折よく、カンカン・・・と電車の到来を告げる音が鳴る。
―――僕の足は、動かなかった。
別に最初からこうしようと思っていたわけではない。
ただ、タイミングよく電車が来ただけだ。
ゆっくりと、僕を閉じ込める様に、海風の影響で少し錆びた遮断桿が降りていく。
「ああー、やばいなー」なんて、どこか他人事のように呟く。
このままだとどうなるのか、解っていないわけではない。
きっとたくさんの人に、たくさんの迷惑をかけることになるだろう。
それでも、僕の足は鉛の様に重く、動く事は無かった。
遮断桿が半分ほど降りた。
「ちょっと!何やってんの!」
そう叫びながら、スーツを着た女性が僕の手を引っ張って踏切の外へと連れ出していく。
あんなにも重かった足は、ただ引っ張られただけで吃驚するほどすんなりと動いた。
二人で踏切の外に脱出した所で、遮断桿は完全に降り切り、短い二両編成の電車がゆったりとプラットホームに入っていった。
あのスピードだと、多分すぐ死ねなかっただろうな、と、また他人事のように思う。
「あなた、どうするつもりだったの?!」
歩道の隅っこの方で肩をがっちりと掴まれて、まっすぐに僕の顔を見てくる。
肩のあたりで切られた髪の隙間から海がキラキラと輝いているのが見えた。
海風に揺れるその髪に反射しているようでとても眩しく思えて、思わず目を細めてしまう。
「・・・いや・・・どうする、つもりだったんでしょうね。僕にもわかりません。でも、あのままあそこにいたら僕は間違いなく轢かれてました。助けていただきありがとうございます」
「・・・え?」
彼女は僕の答えを聞いて、少し混乱しているようだ。
それも仕方がない。
女の子の姿形をした人物から男の子の声が出てきたら、誰だって混乱するだろう。
「キミ、男の子?」
「はい。そうです。紛らわしくてすみません」
「あ、いや。そんな。別にどんな格好したって、うん」
彼女は必死に僕に合わそうとしてくれているようだ。
凄く、気を使わせてしまっている。
「・・・実は、自分でもなんでこんな格好してるのかよくわからないんですよね」
「え・・・?」
これは、本心だ。
僕もなんでこんな格好をしてるのか、なんでこの制服を着ようと思ったのか、自分で自分を理解できないままでいたのだ。
そんな僕の答えに、彼女は余計に混乱してしまっているらしい。
「・・・すみません。助けて頂いて、ありがとうございました。では・・・」
それだけ伝え、坂を下って海へと向かう。
「・・・待って!」
歩き始めて少ししてから呼び止められる。
振り向くと、彼女は小走りでこちらに向かってきていた。
「このあと少し、時間ある?」
「え?」
「・・・水族館、行かない?」
彼女は僕を助けた時とは正反対な、眩しい笑顔を向けてそう言った。
その笑顔は大人っぽい格好とは裏腹に可愛らしく、幼く見えた。
「ほら、あそこ。海岸のすぐ近く」
そう言われて指さされた方を見てみると、確かに水族館と書かれた看板が見える。
海風の所為か所々錆びついていて古臭く、規模もそこまで大きくなさそうだ。
「私ね・・・ほら、じゃーん!年パス持ってんの」
カバンからゴソゴソと取り出したそのカードには、確かに坂の下の水族館と同じ名前が書いてあった。
そして顔写真と、『宮下瞳』という彼女の名前が書かれていた。
「キミの分は私が出すからさ。ね、ちょっと付き合ってよ」
甘えたようなその表情に、少しドキリとしてしまう。
時間に追われているわけでも、予定があるわけでもなく(これは単に学校をさぼったからだが)、特に断る理由が見つからない。
それでも返事に窮していると、宮下さんは強引に腕を引っ張ってきた。
「さ、行こう!」
「あ、いや、ちょっと・・・!僕は・・・!」
そんな弱々しい僕の抵抗は宮下さんにはこれっぽっちも効かず、あっという間に水族館に連れてこられてしまった。
受付にはいかにも人が良さそうなふっくらとしたおじさんがいた。
「おじちゃん、学生一枚!」
「おや、瞳ちゃん。連れがいるなんて珍しいね。しかも学生さんじゃない。・・・いったいどこから攫ってきたんだい?」
言いながらおじさんは手際よくチケットの準備をしている。
宮下さんもささっと料金を支払っていた。
「やだおじちゃん、人聞きの悪い」
二人は笑いながら話してはいるが、攫われたというのはあながち間違いでもないと思う。
「ほら、行くよ!」
あっという間に受付を済ませ、館内へと進んでいく。
「え・・・っと・・・・」
戸惑っている僕を見かねてか、おじさんが少し話しかけてきた。
「・・・大丈夫。瞳ちゃんは悪い子じゃないよ。少し、強引なところはあるけどね」
「それは、はい、そうだと思います」
おじさんは僕の声を聞いて少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに元の表情に戻ってにっこりと微笑む。
「まぁ難しいことは考えず、ただ楽しんでおいで」
その言葉に背中を押され、館内へと一歩踏み出す。
そんな様子を一足先に館内に入った宮下さんが満足そうな笑顔で見ていた。
館内に入ると、表の錆びれた様子からは想像も出来ない様な大きな大水槽が目に飛び込んでくる。
ありとあらゆる種類の魚たちや、ゆったりと泳ぐ大きな亀なんかもいて、想像以上にカラフルでかなり圧巻だった。
「・・・うわぁ・・・」
「・・・ね、凄いでしょ」
「・・・はい」
館内の雰囲気も、恐らく緻密に計算して作られていて、なんだか海の中心にそのまま入り込んだかのような、そんな錯覚を起こすほどだった。
「ここにくるとさ、心の中のもやもやがぱーっと晴れてくような感じになって、よし、明日からまた頑張ろうって、そう思えるんだよね」
水面のユラユラとした反射光が、宮下さんの横顔をふわりと照らす。
「なんかね、時々、周りがものすごいスピードで動いてるような気がして。私もそのスピードに合わせようと必死で動くんだけどさ。それってやっぱり無理してるから、どこかで限界がきちゃうんだよね。・・・だからこうして、ゆったりとした時間の中に身を委ねるのが、私なりのデトックスなの」
ぐぐっと伸びをしながら、あっけらかんと宮下さんは言った。
「わかる・・・気がします」
本当に素直に、そんな言葉が出てきた。
「おー、解ってくれるか少年。同士だな」
子供の様な笑顔を浮かべて、拳をぐっと突き出してくる。
僕は、遠慮がちに自分の拳をこつんと当てる。
大水槽の前にはベンチもあって、そこに二人並んで座りながら、しばらく水槽を眺める。
色とりどりのサンゴや固まって泳ぐ小魚たち、ひらひらと泳ぐマンタや可愛らしい顔をしたサメ。
展示内容はごく一般的な水族館となんら変わりがない。
それでも何故かこの空間が特別なものに思えてならなかった。
だからだろうか。
僕は自然と、話しだしてしまった。
「・・・妹が、居たんです。双子の。これ、妹が着る予定だったんですよ。この春から」
宮下さんは、聞いてるのか聞いていないのか、何も言わずにただ水槽を眺めている。
「自分でもなんでかわからないんですが、妹の格好をして、外に出て。気付いたらあそこにいて。なんか・・・ほんとに、よく、わからなくて・・・」
うまく言葉が出てこない。
自分の語彙力が恨めしい。
それでも宮下さんは、特に急かす事もせず、僕の言葉が吐き出されるのをただじっと待ってくれている。
ひとつ、大きく息を吐いて、僕は続けた。
「・・・最初は、只の好奇心でした。背格好も似ていたから、入りそうだなって。それで、鏡の前に立ったら・・・居たんです。そこに、妹が。もちろん、わかってるんです。これは自分だって。でも、そう思わざるを得なくて、そう思いたかったのかも・・・。僕がこういう格好をすれば、妹はここにいて。だから、僕は・・・」
今自分が何を喋っているのか、どんな言葉を使っているのか、わからなくなってくる。
伝えられているのかもわからない。
でも、それでもはっきりと自覚できるのだ。
これが僕自身の言葉なんだと。
「・・・ふっ・・・う・・・」
それを自覚したとたん、息が詰まり、涙が溢れだしてくる。
涙を隠すように両手で顔を覆うが、とても隠せる涙では無かった。
頭をくしゃりと撫でられる。
僕は、人目を憚らずに、子供の様に泣き崩れた。
―――しばらくして。
呼吸もようやく落ち着いて、流れる涙も出尽くしたころ、僕は思い出した。
「・・・そういえば、泣けなかったんです。僕」
「今一杯泣いたじゃん」
「いや・・・!それは、その・・・!そうなんですけど!」
「はい。声、ガッサガサだよ」
宮下さんは悪戯っぽい笑顔を浮かべて、いつの間に買ったのか、飲み物を差し出してくれた。
「・・・ありがとうございます」
僕は素直にそれを受け取り、一口飲む。
気のせいか、少ししょっぱい気がした。
「・・・思い出させてくれるんだよね。ここって」
「え?」
「そういう、なんていうんだろう。大切な事というか・・・、本来の自分というか。そういうの。・・・あはは、ごめん。私もうまく言えないや」
少し悲しげな、困ったような笑顔で、宮下さんは言った。
本当に、色んな顔をする人だなと思った。
「ここが、キミのそういう場所に成れたんなら、無理やりにでも連れてきた甲斐があったかな」
「・・・無理やりの自覚あったんですね」
「あはは!そりゃね!あんな事、普通しないもん!」
ケタケタと楽しそうに笑う。
よく笑う人だ。
「・・・よかったね」
それが何に対してなのか、僕にはよくわからなかったけれど、でも、僕もそう思えた。
「はい。・・・ありがとうございます」
水面が揺れる。
光が揺れる。
ああなんて綺麗なんだろう、と、そう思った。
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