『黄昏の光』


昔の話をしようと思う。
いや、年数でいえばそんなに昔の話でもないのかもしれない。
それでも今の私にとっては、遠い昔の出来事のように思える。

とは言っても、そもそも現実感が無さ過ぎて、本当にあった出来事なのか、実はそれすらも曖昧だったりする。
だから今から語る話は、もしかしたらただの私の妄想なのかもしれない。

でも。

それでも。

きっと、ずっと忘れられない思い出として私の中に残り続けていくと思う。
・・・そんな、お話。

―――高校受験を間近に控えた、中学三年生だった頃の話だ。
当時の私の成績は、客観的に見てとても優秀な方、だったと思う。
『だったと思う』というのも、当時の私は、周りの成績を気にする余裕なんて全く無かったからだ。
とにかく自分の成績、点数がどうか。
そんな事ばかり考えていた。
きっと、父の影響が色濃く出てしまっていたのだと思う。
例え順位が一位だったとしても、誤答があったテストなら、どこを間違えてなぜ間違えたのか、同じ間違いをしないようにするにはどうしたらいいか・・・というのを理解するまで延々とやらなければいけなかったのだ。
もし同じテストがあれば、満点でなければ許されない。
私は、そんな父の教えに必死に食らいついていたのだけど、心の中のどこかで限界が来ていたのだと思う。

いつものように机に噛付いて勉強をしていた時の事だ。
何の前触れもなく、突然ふっと身体の力が抜けてしまったのだ。
手にしていたシャーペンはコロコロと机の上から転げ落ちて、カツーン、という音が虚しく部屋に響く。
私はそれを眺めている事しかできず、焦点すら定まらない。
どれくらいの時間が経ったのか分からなくなるほど、私は放心していた。

そのあたりからの記憶は曖昧で、私は気が付いたら始発の電車に乗っていた。
手にしている切符の行先は・・・祖母の家。
小さいころに一度行った事があるだけで、それ以来会ってもいないし、場所も何もかもが曖昧だった。
それでも、自然と身体が覚えている。
そんな不思議な感覚があって、私は何かに導かれるようにして見知らぬ道を進んでいった。

朝日が昇って少しお腹も空いてきた頃に、電車は目的地に到着した。
そこには長閑な自然の風景が広がっていた。
この場所だけどこか時代の流れに取り残されているような、そんな所だった。
見覚えなんてもちろんない。
だけど、どこか懐かしさを感じた。
グゥとお腹がなる。
心なしか頭もふらふらしている。

(行こう・・・)

祖母の家がどこにあるかは分からない。
けれど、足は自然と動いていた。
海沿いの道をひたすら歩き、気が付くと一軒の家の前に立っていた。
立派、と言っていいかはわからないが、年季の入った平屋のお家。
広さはそれなりにありそうだった。
海風を背に受けながら門の前で家を眺める。
頬を過ぎていく風と、波の音が心地いい。

表札には『榛名』と書いてあった。
私とは違う苗字。
母の、旧姓だった。

その『榛名』という字をぼーっと見ていると、庭の方から一匹の老犬がのそのそと歩いてきた。
そこそこ大きな犬で、動かない私の手の甲あたりをひと嗅ぎすると、ゆったりと玄関のほうへ向かっていく。
老いてはいるが、しかし、しっかりとした前脚でカリカリと扉を引っ掻く。
するとしばらくして家の中から誰かが出てくる気配がした。
ガラガラと扉が開き、おばあさんが顔を覗かせた。

「ゲンさん、どうしたんだい?」

そう犬に尋ねると、ゲンさんと呼ばれた老犬は再び私のほうへ戻ってくる。

「あら、お客さんかい?教えてくれてありがとうねぇ」

おばあさんは私に気付くと、こちらまで出てきてくれた。

「何か御用で・・・おや、もしかして・・・彩ちゃん、かい?」

彩というのは私の名前だ。
おばあちゃんとは幼い頃に会ったきりで、顔も覚えていなかった。
だけどなぜか確信を持って思える。
この人が私のおばあちゃんだと。

「おばあ・・・ちゃん・・・」

そこで私は、泣き出してへたり込んでしまった。
「とにかく中にお入り」というおばあちゃんに手を引かれて、家の中へと入っていく。
居間に通され、おばあちゃんの淹れてくれたお茶を飲むと少しだけ心が落ち着いた。

「そうだ、彩ちゃん。アルバムでも見るかい?」

そう言っておばあちゃんは分厚いアルバムを取り出して私に見せてくれた。
表紙を開くと、お母さんの学生の頃の写真が貼られていた。
その隣には大人になって赤ちゃんを抱いているお母さんと、少し涙目になっているお父さんの写真。

(てことは・・・あの赤ちゃんが私、か)

歴史を飾るように並べられた写真の中で、少しづつ成長していく私と、それを見守るように写るお母さんとお父さん。
私が小さい頃の写真に写っているお父さんは、なんだか穏やかに見えた。
そんな写真を見ながら、私はポツポツとおばあちゃんに話始めた。

受験勉強真っ只中な事。
それでも勉強自体はそんなに嫌いじゃない事。
何故か急に力が入らなくなってしまった事。

そして・・・お父さんの事。

ほぼ初対面にも関わらず、スルスルと言葉が出てくるのが不思議だった。
全てを聞き終わるとおばあちゃんは一言「そうかい」と言った。
そして私の頭を撫でながら聞く。

「彩ちゃんは、お父さんの事好きかい?」
「・・・今は・・・わからない。でも、嫌いじゃなかった・・・とは思う」

それを聞いて、おばあちゃんは満足したように頷いた。
そしてまた「そうかい」と言って私の頭を撫でる。
しわくちゃなその掌がなんだか心地よくて、私はうとうととし始めた。
ここからの記憶は曖昧で、私は多分寝てしまったんだと思う。

・・・私は見知らぬ川辺に立っていた。
辺りは薄暗く、山の向こうの方に僅かに残った太陽が世界を薄紫色に照らしていた。
そんな中を、小さな光の粒がゆっくりと点滅しながらプカプカと浮かんでいる。

(蛍だ)

都会ではなかなかお目にかかれないその光景に目を奪われる。
ふと気が付くと隣に誰かがいて、私はその人と手を握っていた。
怖さはなかった。
お母さんだって思ったから。

「彩」

そう呼んでくれるお母さんの声が懐かしくて。
私はまたちょっとだけ泣いてしまった。

「頑張ったね」

うん。
お母さん。
私がんばったよ。

「でも、ちょっと頑張り過ぎちゃったわね」

・・・そうなのかな。

「彩は優しいから」

やさしい?

「お父さんを、がっかりさせたくなかったんだよね」

・・・

そうかも知れない。
だって、お母さんがいなくなって・・・お父さん、なんか怖くなって・・・。
でも、言えなかった。
私の前では気丈にふるまってて。
でも、夜中にひとりで、泣いてるの見ちゃって。
だから・・・。

「きっと必死だったのね、二人とも。あなたはお父さんに心配かけまいとして。そしてお父さんは、一人でも彩を守っていくんだって。そうやって、お互いにちょっと頑張り過ぎてしまったのね」

・・・私、どうしたらいい?

「心配しなくて大丈夫よ。ここは、そういう所だから。だから、大丈夫」

大丈夫?
大丈夫って何が?

「ふふ。さ、ちゃんとお話してらっしゃい」

待って!お母さん!お母さん!!

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

「お母・・・さん・・・」

目覚めると、そこはおばあちゃんの家の居間だった。
隣にはゲンさんが寄り添って寝てくれている。
その毛はなんだかボサボサしていたけど、それでもなんだか暖かかった。

「彩!」

そう呼ばれて顔を上げると、そこにはお父さんがいた。

「彩・・・すまない・・・すまない・・・」

そう言いながら、お父さんは強く私を抱きしめた。
私の気持ちは、なんだかフワフワしていて。
まだ夢の続きを見ているようで。

「お父さん、私、お母さんに会った」
「お母さんに・・・?・・・ああ・・・そうか。そうだったんだな・・・」

お父さんは妙に納得したようにそう言った。
そこで、私のお腹がグゥと鳴った。
そういえば今は何時なんだろう?
外を見るともう日は落ちかけていた。
そしてそれを見計らったかのように、おばあちゃんが食卓にご飯を並べていた。

「さ、まずはご飯を食べましょう。久しぶりに張り切っちゃったわ」

そう言いながら、とても嬉しそうなおばあちゃん。
ご飯を食べながら、こうやって人と顔を合わせて食べるのもなんだか久しぶりだな、と気が付いた。
会話はそんなに多いわけではないし、ぎこちないし、ちぐはぐだったけど。
それでもおばあちゃんはずっと嬉しそうだった。

ご飯を食べ終わると、お父さんが「見せたい場所がある」と言って私を外に連れ出した。
連れていかれたのは、近くの川辺。
そこはまさに、お母さんと会ったその場所だった。
夢で見たその景色と同じように、蛍の光が瞬いている。

「ここ・・・え、なんで?私、ここでお母さんと会ったの」
「ああ、やっぱりそうか。・・・話を聞いて、多分ここだと思ったんだ」
「・・・ここって、なんなの?」
「うん。ここはな・・・」

お父さんが言うには、この地域には一つの信仰があって・・・信仰と言ってもそんな大それたものではなくて、ちょっとした言い伝えみたいなもので。
古くからこの地域では、亡くなった人の魂は蛍の光に宿る、と考えられていたらしい。
そこから、毎年お盆の時期になると、亡くなった人を想い、願いを込めて、蛍に見立てた天灯を空に放つ。
そんな、地域の小さなお祭り。

遠くから祭囃子が聞こえる。
丁度、今がそのお祭りの時期みたいだ。
昔は川辺でお祭りが催されていたみたいだけど、近年は自然保護の観点から近くの広場にお祭りの場所を移したようだ。
ふわりと、優しい光が横切っていく。
この幻想的な景色を見ていると、昔の人がそう考えたのもわかるような気がした。

「ただのお祭り程度に捉えてたんだが、彩の話を聞いて真っ先にここを思い出した。だから、妙に納得してしまったんだよ。・・・お母さんは、この場所、ここの伝承が好きだったから。そんな伝承に模して現れたっていうのも、なんだか、『らしい』感じがしてな」
「そうだったんだ」
「・・・彩、改めて・・・すまなかった。お父さんな・・・お母さんが死んでから、躍起になってたんだと思う。彩を立派に育てなければ。彩には俺しかいないんだからって。だから・・・」
「ふふ」
「・・・彩?」
「お母さん言ってた。お父さんは必死なだけだよって。さすがお母さん。お父さんの事よくわかってるね」

そう言うと、お父さんは照れくさそうに首の後ろ辺りをポリポリと掻いた。

「・・・私ね。どうやってここに来れたかわからないの。でも自然と身体が動いてて。すごく、不思議な感覚だった」

そう言っている間も、夢なのか現実なのか、わからなくなるくらいだった。
この幻想的な景色が、それを一層助長していたのかもしれない。
一つの光が、空へと飛び立つ。

「お母さん、ありがとう」

その光に向かって、自然とそんな言葉が出た。
そのあとは、ずいぶん長いことお父さんと話をしていた。
話の内容はよく覚えていない。
でも多分、学校の話とか、お母さんとの馴れ初めの話とか、そんな事だ。
きっと、内容とか関係なかったんだと思う。
私たちは失ってしまった時間を取り戻すように話し続けた。

今、こうして話せること。
それが本当に幸せな事なんだと思った。

―――これが、私の体験したお話。
最初に言った通り、本当にあった出来事なのか定かではない。

でも。

それでも。

私はそれで救われたんだ。

今は、お父さんと仲良く暮らしてる。
高校に進学した私は、勉強からは少し離れることにした。
やらなくなった・・・というわけではなく、程よい距離感で付き合っていく事にしたのだ。
受験期のあの頃があったからか、結果としてちゃんと基礎力がついていて、授業を聞いているだけでも程よく理解できるようになっていたのだ。
怪我の功名とはよく言ったものだ。

これから私は、勉強以外のいろんなものにも目を向けてみようと思っている。
やりたいこと、やってみたいこと、興味のあること、なんでもいい。

そうそう、あれから毎月おばあちゃんの家に行くようになった。
その度におばあちゃんは嬉しそうにご飯を作るんだけど、最近はそのお手伝いをするようになった。
おばあちゃんと一緒にご飯を作るのが、楽しいんだ。

おばあちゃんが毎回、嬉しそうにご飯を作るのが何故か。
近頃わかってきた気がする。


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