森の中に軽快な足音が響く。
その巨体からは考えられないほど軽い音だ。
全身で風を切り、猛スピードで駆け抜けていく。
あの遺跡は、マナの家からかなり離れた場所にあった。
凶悪兎から逃げ回っているうちに、存外森の奥深くまで入り込んでしまっていたらしい。
「乗れ。お前の脚じゃ戻るのにも時間がかかり過ぎる」
遺跡から出る際、ファウヌスはそう言って、俺を背に乗せて走ってくれていた。
「・・・」
「・・・」
道中の会話はない。
ただ黙々とマナの待つ家へとひた走る。
ファウヌスなりに、どこか気を使ってくれているのかもしれない。
「なぁファウヌス」
「・・・なんじゃ」
「俺は、なんなんだろうな」
その言葉に特に意味はなかった。
ただ漠然と、口から零れ落ちた言葉。
「・・・」
走るスピードが落ちて、歩きに変わる。
「ここまで来ればもうすぐそこじゃ。歩こう」
「・・・ああ。ありがとう」
ファウヌスの背から降りると、ファウヌスはすぐ人型へと変化した。
「さて、己が何か、という話じゃったか・・・」
話を逸らされたかと思ったが、聞き流したわけではなかったらしい。
「・・・我はこの森で生まれた。しかし、親というものを知らぬ。物心ついた時からすでに一人で生きておった。他の種族たちは皆つがいを見つけ、子を成し、そうやって命を循環させておる。そしていつしか気付いた。我はそういった生態系から外れた存在なのだと。・・・では、なぜ我は生まれたのか。何のために生まれたのか。そんな事を考えるようになった。だが長い事生きて、その疑問が意味のないものだと気付いた」
「意味が、無い?」
「ああ。同じだと思ったのじゃ。巡る生態系の種族たちと、我と、何も違いはない。ちいとばかり我が長く生きておるだけじゃ」
「同じ?そうか?全然違う気がするんだが」
「では、考えてみろ。つがいを見つけ、子を成し、そうした命の循環の意味とはなんじゃ?」
「それは・・・」
問われて改めて考える。
命の意味、その理由。
何の為にそういった循環があるのか。
生態系の維持、食物連鎖の中の一つ、そういった意味での理由は見出せるが、そんなものは人間が勝手に作った枠組みに過ぎない。
今話しているのはもっと根源的な・・・命の存在理由だ。
そういった意味では確かに、どんな生物だろうと何も変わらないのかもしれない。
「・・・わからない」
素直に、そう答える。
その答えに満足そうに頷くファウヌス。
「そう。わからない。誰にも。答えなんぞ無いのだ」
それだけを言うと、すたすたと歩いて行ってしまう。
「あ、おい!」
「はよう帰るぞ。腹が減った。マナも待ちくたびれているだろうよ」
わははと笑って兎を持ち上げる。
こうしてみてもあの凶悪兎の体格はかなり良い。
これからしばらくの間肉には困らなそうだ。
こいつは美味いぞ、と言っていたファウヌスの話を思い出し、思わず涎が出そうになる。
それに連動するようにぐぅと腹が鳴った。
・・・意識を食欲に持っていかれてしまった。
「・・・思うつぼだな」
ファウヌスがどういうつもりでそんな話をしたかは分からないが、どこか心持ちが軽くなっているのは確かだ。
どうも、いいようにしてやられている感じがする。
心持ちは軽くなったが、その代わりに謎の悔しさが生まれたのだった。
「おかえり・・・って、ホップラビットじゃない!よく狩れたね・・・!」
家に帰って早々に、マナは兎を見て目を輝かせていた。
あの兎、ホップラビットっていうのか。
名前の通り厄介な跳躍力をもつ奴だった。
その能力には死を覚悟したが、逆に言えばその能力のおかげで勝てたともいえる。
どちらかと言えば不戦勝に近いが。
「あ、でも、結局ファウヌスも一緒だったのね。じゃあ狩れて当然か」
「いや?こいつは間違いなく此奴の獲物じゃ。我はその後合流したに過ぎん」
「え?!ほんとに?ユーリが狩ったの?ホップラビットを?・・・え?」
そう言われても、にわかには信じられないといった表情のマナ。
それはそうだろうと俺も思う。
普通に考えたら普通の人間に敵う相手ではない。
「ああ、それも、一切剣を抜かずにな」
「・・・え?」
信じられないようなものを見るような目でこちらを見るマナ。
ファウヌスは悪戯っぽい顔をして笑いを堪えている。
なんだろう。
この空気はとてもいたたまれない。
「いや・・・その・・・」
恐る恐る声を上げ、実際に起きた事を話す。
「・・・また・・・あなたは・・・」
話を聞いたマナは頭を抱える。
「なんて無茶するのよ!今のユーリなら、相手がどれくらい強いかわかるよね!?それなのになんで逃げないの!?そうやって突っ走るところ、昔から何も変わってない!無茶ばっかりして・・・!なんで・・・」
矢継ぎ早に出てきた言葉はだんだんと失速していき・・・。
「・・・ごめん。私が言う事でもなかった」
それだけ言うと、ぷいっと背中を向ける。
相変わらず、必要以上に一定の距離以上を保とうとしている。
俺とマナの間のわだかまりは一向に解消される気配はない。
「・・・おい、早いとこ何とかしろ。息苦しくて敵わん」
やれやれと言った感じでファウヌスは俺に促してくる。
「・・・わかってるけどさ」
そう答えたものの、実際の所手詰まり状態だ。
俺がここに来てしまった事が原因なのは分かっているのだが、それがなぜマナをそういう態度にさせてしまっているのか、実の所よくわかっていないのだ。
何とかしようにも、解決の糸口が見つからない。
また泣かせてしまうかもしれないが、ちゃんと話をしてみよう。
そう思い、マナを追いかけて台所に向かう。
「なぁマナあへああおい!!」
台所には、血塗れの包丁を手にしたマナがちょうど兎を捌いている所だった。
緊張しながら台所に入ったものだから、そのスプラッタな光景に変な声を出してしまった。
「・・・なに」
マナは顔を背け、わなわなと肩を震わせている。
こちらを見ようともしてくれない。
・・・いやこれ笑い堪えてるだけか?
「な、何か手伝えること、あるか?」
恥ずかしさと気まずさで引き攣った笑顔になってしまった。
「・・・ない」
「・・・そう」
あえなく撃沈した。
その一部始終を見ていたファウヌスは一言「強情だのう」とぼそりと呟いた。
今日出てきた食事はホップラビットのステーキだった。
これはファウヌスが強く要望したもので、「こいつの美味さを知るにはまずはシンプルにステーキじゃ!」と言い張ったからだ。
兎のステーキというのもなかなか想像し辛いものがあるが、肉質は鶏に似ていると言われるし、チキンステーキの様なものを想像したのだが、実際に出てきた肉塊を見て驚愕した。
「・・・ビーフだ」
そう。
ビーフステーキ。
焼き色も、赤身の色も、見た目は鶏肉というより牛肉によく似ていた。
「ただ焼いただけだから。ソースも作ったけど、必要なら使って」
「おいユーリ、こいつは塩でも美味いぞ。じゃがまずは何もつけずにがぶりといけ」
心なしか二人ともテンションが高いように見える。
相当にごちそうなのだろう。
脂から感じる香りはフルーティで華やかさを感じさせる。
その中にも野性味を感じさせる力強さも入っていて、この香りだけでも満足感を覚える程だ。
すでに口の中は唾液で大洪水。
ごくりと生唾を飲み込む。
ファウヌスが言った通りまずはそのまま食すべく、ひとかけらを切り落とそうとフォークとナイフをあてがうと、吃驚するほどスッとナイフが入っていき、簡単に切り落とすことができた。
恐る恐る、口に含む。
「・・・!!!」
程よい弾力がありつつも、口に中で解ける肉と、同時に溢れ出すジューシーな肉汁。
鼻孔を通る香りは脳を刺激してさらに唾液が分泌される。
その味は、牛とも豚とも鶏とも違い、まさに新感覚新食感の肉だ。
ゆっくりと咀嚼する。
歯の上でほろほろと崩れていき、なんとも言えない舌ざわりが楽しめる。
このひとかけらだけで、これほどの感動と満足感を味わう事が出来ようとは思いもしていなかった。
本当に美味いものというのは、自然と味わうように食べてしまうものなのだと、この時初めて感じた。
「どうじゃ。すごかろう」
そんな俺の反応を見て自慢げにファウヌスは言う。
俺は言葉を失い、コクコクと頷くことしかできなかった。
「ただ、日持ちしないのよね・・・」
優雅に肉を切り分けて味わっているマナは残念そうに言う。
背筋も伸びているからか、とても上品に見える。
「残りは燻製と干し肉にするしかないわね・・・。それでも十分美味しいのだけれど」
燻製や干し肉は騎士にとってはなじみ深い食料だ。
騎士団にいる、糧食を担当する料理長が試行錯誤しているものの、食べられはするがそこまで美味くはないというのが現状だ。
空腹を満たすためだけの食料。
燻製や干し肉と言えば、そんな立ち位置の食事だ。
しかし、それでもなお、この肉のそれなら食べてみたいと思わせられる。
(あいつらにも食わせてやりたいな・・・)
そこで思い出したのが、ディオやマリー、第三師団の連中だ。
何かと遠征が多い第三師団にとって、美味い保存食があるというのは夢のような話だ。
少しでも、彼らに分けてやりたい。
「なぁ、ホップラビットの干し肉ってどれくらいで完成するんだ?」
「なに?食べてみたいの?それなら、以前作ったのがまだ余ってるからちょっと待ってて」
マナはそう言うと奥から干し肉を取り出してきてくれた。
薄くスライスされたそれを口に含むと、旨味が口の中に広がる。
ステーキを食べた時に感じた濃厚な旨味と香りはそのままに、食感だけ干し肉のそれになったような感じだ。
十分美味い。
むしろ、これはこれで料理の素材として使えば何か色々と作れそうだ。
「なぁ、これ貰ってもいいか?」
「え、いいけど・・・今回のお肉で新しく作るし、そうね。むしろ消費しちゃってくれた方が助かるかも」
「ありがとう」
食事が終わった後は、それぞれ自由時間だ。
マナが住んでいるこの家屋は意外と規模が大きく、それぞれの個室を用意できるくらいには部屋数も多い。
恐らくは、原初の民が使っていた家屋を修繕して使っているのだろう。
そう考えると、この家屋がやたらと古風な造りになっているのも納得できるし、ファウヌスもいるとはいえ、マナと二人だけでこの規模の家を造ったとは考えにくい。
俺の個室は二階の部屋をあてがってくれた。
良い香りのする丸太を切り出して作ったような机に向かい、レポートを書く。
この森について分かった事、起こった事、様々な事を書き連ねていく。
これは、親父が条件として出したものだ。
森から帰ってこれるかどうかも分からないのに、その行為に意味があるのかと思っていたのだが、あの時点から親父は俺が必ず無事でいるという事を信じていてくれていたのだろう。
ただ、森から出られない以上誰に報告するでもなく、ただ言われた通り書いていたのだが、ここに来て状況は変わった。
カズィだ。
彼ならば、このレポートを外に持っていくことも出来るし、外からも持ってきてくれる。
俺は今までのレポートと、ホップラビットの干し肉を包んでおき、窓を開けて指笛を鳴らす。
すると、今までどこにいたのか分からないが、すぐにカズィが飛んできてくれた。
「クゥア!」
「よしよし。ありがとうな、来てくれて。これ、親父に頼めるか?」
「クア!」
カズィは力強く荷物を掴むと、また空へと飛び立っていった。
これは、リリスとイヴの依頼でもある。
それをするにはまずはこちらの状況を知らせて、親父には皇国内部、化学部門の調査をしてもらうしか方法はないだろう。
親父の返事次第では、リリスとイヴは何か動くかもしれない。
とは言え・・・正直、そこまで心配するような事もないだろうとも思っていた。
瘴気の壁がある以上、皇国が何かを企んでいたとしても森の中に入っては来れないだろう。
懸念するべきところと言えば、リリスとイヴの話が本当の事で、俺の様な人間が他にもいるかどうか、という事だ。
それは親父の返事を待つしかない。
まず俺は、俺自身の事を良く知る必要がある。
「・・・ふぅ」
ベッドに横になり、思想に耽る。
幼少の頃の自分。
そこから、まずは整理してみよう。
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