「しかしうまい具合に適応したもんだのう」
カラカラと小気味よい笑いを上げながら、ファウヌスは言った。
「こうもうまくいくと・・・拍子抜けじゃな。だがこれで、お主も晴れて鳥籠の一員というわけだ」
「鳥、籠・・・」
「・・・ああ。そのように変異してしまえば、お主は最早魔素無しでは生きられん。森からは出られなくなったという事じゃ」
そう言われ、改めて鏡を見る。
変化が確認できるのは、顔の右側だ。
エメラルドグリーンに変色した右目に、前髪は一部黒髪から金髪になっていた。
その色は、今のマナと同じ色だ。
「・・・マナも、適応したって事か」
「・・・」
マナは自分の身体を抱きしめる様に腕を組み、俯いている。
愛くるしい栗色の瞳と髪は、その全てが変色していた。
「でも・・・なんで俺は一部だけなんだ?」
これは当然の疑問だろう。
「知らん」
だがそんな疑問をファウヌスは一蹴した。
「一部だとか全部だとか、そんなものは些事に過ぎぬ。ただこの森に適応した。もし適応せなんだら、お主はとうにあの世の住人だったろう。・・・今、生きておる。その事実だけで十分ではないか」
「それは・・・」
言われれば、と思う。
運よく魔素というものに適応できたからこそ、今ここでマナにも会えている。
その事実だけで、確かに十分なような気がした。
「・・・」
少しの沈黙の後、マナが立ち上がりそっと部屋を出ていこうとする。
「どこに行くんだ?」
「・・・少し外に」
「なら、俺も行く。この森の事、詳しく教えてくれると嬉しい」
「・・・そう」
マナは静かに答える。
子供の頃のマナはもっと天真爛漫で人好きのする性格だった。
だが今はそれがあまり感じられず、むしろ、敢えてあまり感情を表に出さないように振舞っているかの様に思える。
ここでの生活が、マナをその様に変えてしまったのか何なのかは分からないが・・・。
俺は何も言う事が出来ず、ただマナの背中を追う事しかできなかった。
家屋を出ると、ここがあの鬱蒼とした真宵の森の奥深くとは信じられないほど、空から太陽の光が降り注いでいた。
不思議と森の木々も生命力に溢れている様に見え、生き生きとした自然の息吹を感じられる。
「・・・おお・・・・・・」
その壮大さに、思わず感嘆の息を漏らす。
吸い込む空気も森の外とは違い爽やかで、体の中から洗われる様でもあった。
「これは・・・凄いな・・・」
静かにそう呟く。
言葉では言い表せられない感覚がそこにはあった。
「これが、この森の本来の姿・・・らしいわ」
「本来の?」
「魔素は元々当たり前の様に存在して、人は当たり前の様にその恵みを享受していた。けど、それがいつしか、人が街を造り、豊かな暮らしをする様になっていくと、不純物と混ざった瘴気が発生するようになった」
「それが瘴気の正体・・・?成程、ファウヌスが厳密には違うって言っていたのはそう言う事か」
「・・・人が豊かになればなるほど、瘴気の範囲は広がっていって、森は閉ざされていった。結果、人は森の恵みを享受できなくなってしまった」
魔素がもたらす恵み。
この森の作物を食べさせてもらった今ならわかる。
もちろんそれだけではないのだろうが・・・それはなんて、皮肉な事なのだろう。
暮らしを便利にすればするほど、あの味が堪能できなくなっていく。
森の外で同じように育てても意味はなく、純度が高く、潤沢な魔素が無ければ同じものにはならない。
今の皇国民は、そもそも知らないのだからまだいいが、当時に人達からしたらたまった物ではなかったはずだ。
一度あの味を知ってしまえば、他のどんな食べ物も霞んで見えてしまった事だろう。
「でも、森にとってはある意味良かったのでしょうね。結果として切り開かれる事もなく、魔素を失わずに済んだのだから。この森が残ってなければ、あの時、私は・・・」
と、何かを言いかけて、マナはそこで口を閉ざした。
「・・・なぁマナ。一体、何があったんだ?どうしてこの森に・・・」
マナが失踪してから、十年。
なぜこの森で暮らすことになったのか。
なぜ、何も言わず皇国から居なくなってしまったのか。
ずっと探していた真実が、その先にはある。
「・・・その恰好、皇国騎士団に入ったのね。なら、聞かない方がいい」
トーンが、一段階下がった気がした。
その瞳には侮蔑の色すら混じって見える。
「それって・・・まさか」
嫌な予感がした。
「皇国は、あなたの思っているような国ではないわ」
今度こそ感じる、明確な殺意。
背筋に冷たいものが走る。
「聞かせてくれ」
意を決して、そう伝える。
「いいの?聞けば、もう二度と戻れなくなるわよ」
「・・・ああ。そもそも、ここから出る手立てはないんだろう?なら、皇国も、騎士団も・・・関係ない」
「・・・それも、そうね」
マナはそれで納得したのか、一つ息を吐いて話し始める。
「どこから、話そうか・・・」
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
皇国でも指折りの貴族、アルシュタイン伯爵家。
それが私の家だ。
その当主、ヴォルボロ・アルシュタインは皇国の要職に就いていた。
それがどんな役職だったのかは定かではないが、いつも白衣を纏い、なにやら怪しげな研究を続けていた。
私は物心付いた頃から、何らかの研究材料とされていたらしい。
・・・とは言っても、一か月に一回血を抜かれるくらいのもので、少し大げさな健康診断をしていたようなものだ。
だから私はそれについて特に気にしたことはなかったし、変に思う事もなかった。
なんなら、施設に行くと自分と同じ年頃の子とよくすれ違っていたから、みんな同じように検査しているのだろうと思っていたのだ。
そんな中で唯一、気にかかる事があった。
母、アンジュの事だ。
勉強を教えてくれたり、美味しいお茶菓子を焼いてくれたりして、常に愛情を注いでくれた、優しい母。
そんな母が、私の検査の日にだけ少しいつもとは違う表情を見せた。
「・・・ごめんなさい」
検査が終わり、娘を寝かしつけ、頭をなでながら、その日だけは涙を堪える様なそんな表情を見せる。
それが不思議だった。
なぜ母はそんな泣きそうな顔をしているのか。
何か、私が悪い事をしてしまったのか。
子供ながらにそんな事を思っていた。
そんな日が続いた、ある日の事。
「・・・はぁ!はぁ!はぁ!」
母の荒い息遣いに目を覚ます。
母は私を抱きかかえ、走っていた。
「・・・ママ?」
「・・・!マナ。起きたのね」
私が起きた事に気付くと、いつものように優しく頭を撫でてくれた。
「・・・ここ、お外?なんで?ママ、お靴は?」
母は寝巻のまま、裸足で外を駆けていたからか、綺麗な脚は傷だらけになって血で滲んでいた。
「いたか?!」
「いや、見つからない」
「まずいぞ・・・まさか夫人が・・・何としても見つけ出せ!」
「はっ!!」
遠くから、そんな声が聞こえてくる。
どうやら皇国騎士団のようだ。
「ママ・・・?みんな何してるの?」
「シッ!」
母に抱きしめられ、木陰に身を隠す。
人がいなくなったことを確認して、母は話始めた。
「・・・いい?マナ。よく聞いて。私たちは今から、このお屋敷を出るの」
「え?どうして?」
「・・・私は、あなたには元気に、健やかに生きて欲しいの。それだけなの」
そう言う母の表情は、慈愛に満ち、とても優しい顔をしていた。
母のその言葉を、理解したわけじゃない。
けれど、その表情のあまりの美しさに、私は声を出すことができずにいた。
「隊長!ここに血の跡が!」
「・・・!いけない!マナ、逃げるわよ!」
「・・・う、うん!」
訳も分からないまま、手を握って走り出す。
運動神経はいい方だったから、特に遅れる事もなく走ることができた。
「逃がすな!手足は切り落としても構わん!生け捕りにしろ!!」
「・・・?!」
その言葉を聞いて、私はようやく事の重大さに気付き、身体中が恐怖で震えあがる。
とにかく逃げるしかない。
そう思った。
「・・・ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・!」
屋敷を出て、城下町を抜けて、城壁の外まで逃げ出した。
何度も見つかりそうになりながら、何とかここまで来た。
「・・・ハァ・・・ハァ・・・ねぇママ?どこまで逃げるの?」
「・・・真宵の、森」
「でも、あそこは、入れないんじゃ」
「・・・そうね。でも、あなたなら・・・」
「いたぞ!あそこだ!」
「!!」
城壁を抜けると、平原が広がり、身を隠す場所も多くない。
見つかってしまうのは時間の問題だった。
「走って!」
「うん!」
考える暇はなかった。
とにかく逃げるしかなかった。
「・・・うっ・・・!」
「ママ?!」
見ると、母の足に矢が刺さっている。
「ママ!ママァ!」
「私の事はいいから!早く逃げなさい!」
「でもママが!」
「早く!!!」
今まで見た事もないほどの鬼の形相で叫ぶ母。
私は後ろ髪を引かれながらも、走り出した。
「逃げなさい!!遠くへ・・・!出来るだけ遠くへ!!!」
背中から母の叫びが聞こえる。
「あああああああああああああああああ!!!!!」
とにかく走る。
走って走って走り続けて。
森にたどり着いた私は、オオカミに襲われそうになった所で、気を失ってしまった。
―――パチパチと薪の燃える音が聞こえて、私は目を覚ます。
「・・・おう。目が覚めたか小娘」
そこには、褐色の肌に金色の瞳をした銀髪の美女がいた。
「・・・あなたは?」
「ん?我は、ファウヌスという。・・・お主の名は」
「私?・・・私は、マナ・・・」
「マナ・・・そうか、マナか。ふむ。良い名じゃ」
「えっと・・・あなたが、助けてくれた、の?」
恐る恐る聞いてみる。
「ハッ。気にするな」
その声音はとても優しく、まるで母の様だった。
これが、私とファウヌスの出会いだった。
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
「・・・これが、私がこの森で暮らす事になったあらまし」
淡々と、マナは語る。
その壮絶な出来事とは裏腹に。
「騎士団が、そんな事を・・・?何の為に・・・」
「さぁ。それは私にもわからない。結局、母がなぜああまでして私を逃がそうとしたのか・・・それすらも、わからないのだから」
きゅっと唇を噛み締め、悔しさを滲ませるマナ。
マナの母、アンジュがどうなったのか、それは想像に難くないだろう。
生け捕りと言っていたのなら、生きてはいるのだろうが・・・。
一度逃げ出そうとした者がどういう扱いをされているのか、考えるだけでも恐ろしい。
それが分かっていても、助けたいと思っても、この森から出る事は叶わない。
それは、どれほど辛い事なのだろう。
「・・・辛かったな・・・」
思わず、そう言葉にしてしまう。
「やめて」
マナからは、はっきりとした拒絶反応が返ってくる。
「・・・せっかく、思い出になってきたのに。忘れようとしていたのに。なのに・・・あなたが来るから・・・ねぇ、なんで来たの?なんでここまで来れちゃうの?ねぇ・・・なんで・・・」
顔を覆い、嗚咽を漏らす。
俺は、どうしてやることも出来なかった。
マナを助ける為とか言いながら、結局はマナに辛い思いをさせてしまっている。
俺が、ここまで来た意味は、いったい何だったのだろう。
考えてみれば、助けたいというのも、俺のエゴに過ぎない。
それを、俺は・・・。
「・・・ごめんなさい。あなたに言っても仕方がないわね。・・・帰りましょう」
マナは踵を返し、家に帰ろうとする。
「・・・マナ!」
その背中を、呼び止める。
何を言えばいいか分からないままに。
「・・・辛い事を思い出させて・・・すまなかった。でも、俺はそれでも・・・マナに会えて、マナが生きててくれて、嬉しかったんだ」
これを伝える事が何になるかは分からない。
それでも、今の俺には、それを伝えるしかできなかった。
「・・・」
マナは、一瞬だけ足を止めたものの、そのまま家の方へと戻っていった。
・・・やはり、ここに来たのは間違いだったのだろうか。
「クァアア!!」
そんな事を思っていると、空から聞きなれた声が降って来る。
空を見上げると、大きな翼がこちらに向かって降りてきていた。
「カズィ!お前、どうして・・・!」
「クルルルル」
喉を鳴らして、カズィは甘えてくる。
嘴の下を撫でて可愛がいながら空を見上げた。
もしかしたら、空中には瘴気の影響がないのかもしれない。
そう思い至ったが、それが分かったところでどうしようもない。
人間は空を飛ぶことなどできないのだから。
「こら、そんな頭を擦り付けるな」
カズィはまるで猫の様に身体を擦り付けてくる。
やがてそれに満足したのか、また空へと飛び立っていった。
「相変わらず自由な奴・・・」
そんなに日は経っていないはずなのだが、懐かしさすら感じ、傷心気味だった俺の心がほんの少しだけ軽くなったような気がした。
空からは相変わらず太陽の光が燦燦と降り注いでいる。
「・・・よし」
嘆いてばかりではいられない。
俺も、この森で暮らしていくための知識をつけなければいけないのだから。
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