俺がまだ、初等学級に通い始めたくらいの話だ。
その頃にはもう、親父は国の英雄として讃えられていて、それが自分の事の様に嬉しくて、子供ながらにそんな父親が誇らしく、憧れていた。
だから俺は親父に頼み込んで、日頃から剣の稽古をつけて貰っていた。
そのお陰か、皇国周辺に現れる小さな魔物程度であれば、たった一人でも撃退出来る程の強さを習得できていた。
魔物を倒せば周りがちやほやしてくれる。
それで俺は友人たちと一緒によく街の外へと抜け出して、英雄ごっこのみたいな事をしていた。
だから、まぁ・・・簡単に言って仕舞えば、その頃の俺は調子に乗ってしまっていたのだ。
対して、幼馴染のマナは心優しい優等生といった感じだった。
俺たちについて来ていたのも『心配だから』という理由が一番大きかったのだろう。
実際マナがいなければ、俺たちはもっと無茶な事をしていた。
だが子供の頃というのは、面白い事、楽しい事が優先になってしまって他の事に目が行かなくなる事が往々にしてある。
その日もいつもと変わらず、街の外に冒険に出ていた。
仲間たちを引き連れ、ごっこ遊びをしながら、偶に現れる魔物は俺が一太刀で消滅させる。
そんな事を繰り返していた。
「すげぇ、ユーリ!もうこの辺りで敵わない魔物なんていないんじゃないか?」
そんな事を言われ、俺の鼻はぐんぐん伸びる。
「当然!俺は英雄の息子だぞ!」
「かっけぇぇ!!」
男友達は単純で、そんな風に持ち上げてくれる。
女友達もキャーキャーと黄色い歓声を上げる。
唯一マナだけが、微妙な表情を浮かべていた。
「なぁ、今日はもうちょっと遠く・・・真宵の森まで行ってみねぇ?」
仲間の中の誰かがそう言った。
それが瞬く間に波及していき、「いいね」「いこう」と全員乗り気になっている。
「だ、だめだよ。あそこは近づいちゃいけないって言われてるでしょ?何かあったら・・・」
マナは当然皆を止める。
ただ、こういう流れになってしまうとマナ一人で止められるものでもなかった。
「大丈夫だよ!魔物が出てもユーリが何とかしてくれるし。なぁ?ユーリ!」
「ああ、どんな魔物だって俺が倒してやる!」
今思えば、なんとも無責任で無謀な答えだ。
街から離れれば離れる程、当然出現する魔物は強くなっていくし、真宵の森ほど瘴気が濃い場所の近くともなれば、見た事もないような個体に遭遇する可能性だってある。
だが子供の好奇心は、そんな単純な事すら頭の中から搔き消してしまっていた。
そして、その答えが間違いだった事に、すぐ気付かされる事になる。
真宵の森に近づくにつれて、だんだん空の色が変色していった。
真昼間だというのに、赤や紫が混じったマーブル色に変化して行き、肌に感じる空気もねっとりと絡みつきどんどん重くなっていく。
心なしか呼吸もし辛くなってきている気がした。
瘴気の濃度がどんどん濃くなってきているのだ。
ここまで来てようやく恐怖心が好奇心に勝ち始め、普通ではないという事に気付き始めた。
「・・・なぁ、なんかヤバいって。やっぱ引き返そう」
「な、なんだよ。今更。怖気付いたのか?お、俺がいれば・・・!」
「グルルルァアァ・・・!!!」
『大丈夫』と、そう言いかけた途端、森の奥からビリビリと空気を震わす唸り声が聞こえてきた。
「うわあああぁぁぁ!!!」
「きゃああああぁぁ!!!」
「あ、お、おい!!」
今にも襲わんとするその唸り声を聞いて、全員一目散に逃げだしていく。
後に残ったのは、俺と、マナの二人だけだった。
「・・・お前は逃げなくていいのかよ、マナ」
マナの足は震えていた。
本当は今すぐにでも逃げ出したいだろう。
「・・・ユーリ、一人でも奥へ行っちゃいそうなんだもん」
図星だった。
俺はどうも、人よりも好奇心が強すぎるようなのだ。
マナはそんな俺の性格をよく分かっていた。
「・・・ついてくるなら、俺から離れるなよ」
「・・・・・・うん」
マナは答えるかどうか逡巡して、結局首を縦に振る。
そして俺の服の裾辺りをきゅっと遠慮がちに掴んだ。
何故かそれだけで、俺は何倍も強くなったかのような錯覚を覚える。
意を決して、森の奥へと一歩踏み出す。
進んで行くにつれて、獣の血の匂いが濃くなっていく。
「ねぇユーリ、これ・・・」
そうマナが示した所には血の跡が残っていて、ポツポツと奥の方へと続いていた。
血の跡がある、という事は魔物ではない。
魔物に血は通っておらず、瘴気の塊のような存在で、倒すと黒い霧状になって消えていく。
親父は、『思念体の様なモノ』と表現していた。
「・・・グルル・・・」
心なしか、先ほどの声よりも弱々しく感じる。
「油断するなよ、マナ」
もしかしたらその言葉は、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
血痕を辿っていくと、まるで大きな岩の塊の様な影が小刻みに震え、ゆっくりと浅い呼吸を繰り返していた。
「ウウウ・・・!!!」
向こうも、何かが近づいて来ていることに気が付いたのだろう。
低く重い唸り声をあげ威嚇する。
森の暗闇に目が慣れてきて、その大きな塊が、狼の様な見た目をした動物だと分かった。
しかし、狼にしては身体が大きすぎる。
大人一人くらいであれば丸呑みしてしまえる程の大きさだ。
その双眸は血に濡れ、こちらをきつく睨みつけている。
毛皮はボサボサになっており、血で所々固まっていて見るに堪えない。
案の定、じわじわと血溜まりが広がっているようだ。
このまま放っておけば、直に息絶えてしまうだろう。
俺はゆっくりと巨大な狼に近づいていく。
「ユ、ユーリ・・・!危ないよ・・・!」
マナは必死に俺を止めようとする。
「でも、あいつあのままじゃ死んじゃうだろ」
「だ、だけど・・・!」
マナの静止を振り切り、俺は手を伸ばす。
「大丈夫。手当してやるから。まずは血を止めないと・・・」
そうは言いながら、別に治療できる技術を持っているわけでもなく、ただこの時の俺は大抵の事は善意でなんとかできると思い込んでいたんだ。
そんな事、あるわけがないのに。
今までは、周りの人たちが協力してくれて何とかなってきたし、してきた。
それを愚かにも自分の力だと思い込んでしまっていたんだ。
そんな押しつけがましい善意を向けられた所で、この狼にとってみれば意味も解らないだろうし、そもそも言葉も意志も通じない異文化種族だ。
手負いの状態であることも含めて、そんなものは恐怖以外の何物でもないだろう。
「ガアアアアア!!!」
だから、こうして襲われるのは当然の帰結だった。
「うわあああああ!!!」
「ユーリ!!!」
俺は狼の太い脚に一撫でで吹っ飛ばされ、背中に大木が強かに当たり、あまりの激痛に意識が朦朧となる。
とっさに腕で防御した際にその鋭い爪で皮膚が切り裂かれた様な気がしたが、身体中が熱を持ち、出血しているかどうかすらわからない。
「・・・ぐっ・・・が・・・は、ぁ」
呼吸ができない。
何とかして顔を上げると、俺を庇う様にして立つマナの姿が見えた。
「に、げ・・・」
『逃げろ』という言葉は最後まで発せられることはなく、俺は気を失った。
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
―――目が覚めると、そこは馬車の中だった。
幌の隙間から見える空は、マーブル状ではなく満点の星空だった。
「・・・あれ、ここ」
「ユーリ!!」
隣にいたマナが飛び上がった。
肩のあたりで切り揃えられた栗色の髪は左右に揺れ、長い睫と、髪色と同じ栗色の瞳がこちらを覗き込んでくる。
その両目には涙が溜まっていて今にも零れ落ちそうだ。
右手はぎゅっと握られたままだ。
「マナ・・・無事だったんだな」
「無事じゃないよ!無茶して・・・!死んじゃうかと思ったんだからぁ・・・!!」
どうにか身体を起こそうとすると、背中に激痛が走り、思わず声が漏れた。
「ぐっ・・・!」
「無理しちゃダメ!思いっきり飛ばされたんだから・・・」
「あ、ああ・・・」
気を失う前の朧げな記憶を思い出し、さらに痛みが増したように感じた。
だが、防御したときの腕の打撲や背中の痛み以外は特になんともないようで、腕は赤く腫れてはいるものの、特に裂傷などは無いようだった。
引き裂かれたと感じたのは、あまりの威力に身体がそう勘違いしたのだろう。
「ユリウス」
馬車の中には、親父もいた。
「父さん・・・!父さんが助けてくれたの?!」
憧れの父に助けて貰えたという事実が、なぜだか無性に嬉しく感じた。
自分の憧れが間違いではなかったという事実と、やはり父は強いのだと、それが確かめられたからだろうか。
だがぞんな喜びも束の間、俺は思い切り平手打ちを食らった。
「・・・?!?」
頬はびりびりと痺れ、熱を帯びる。
痛いはずなのだが、父に殴られたという事実と、殴ったはずの父の方がなぜかとても辛そうに見えて、不思議と涙は出てこなかった。
「この大馬鹿者が!!一つ間違えたら死んでいたのかもしれんのだぞ!貴様のそれは勇猛ではない!ただの蛮勇と知れ!!」
父がここまで怒る姿は、今まで見た事が無かった。
呆然としていると、父は大きな身体で俺を抱きしめる。
「馬鹿者が・・・!よく、よく生きててくれた・・・!」
心なしか、父の手が震えているように感じた。
叩かれた事には出なかったくせに、今になって大量の涙が頬を伝い流れ出す。
「っう・・・ご、ごめ・・・ごめんなさいぃぃ・・・!!!」
人前で、こんなにも泣いたのは初めてだった。
ひとしきり泣いて、泣きつかれて、眠って、目が覚めた時はすでに自宅に着いた後だった。
横を見ると、マナがいた。
どうやら今日はそのままうちに泊まったらしい。
疲れ切っていたのか、静かに寝息を立てている。
「・・・ごめんな・・・マナ」
聞いているかもわからない相手に、言葉をかける。
「俺の所為で、怖い思いをさせて・・・本当にごめん。・・・俺、強くなる。父さんみたいに。身体も、心も。強くなる。お前に心配させないくらい、強くなるから」
「・・・ユーリ」
寝ていると思っていたマナから言葉が発せられ、気恥ずかしくなる。
「な、なんだ、起きてたのかよ」
「・・・ううん。今、起きたの。・・・ねぇ、ユーリ」
「な、なんだよ」
「もしね、もし、私が、大変な事になったら、その時は・・・助けに来てくれる・・・?」
布団にくるまるその背中は、とても小さく、か弱く見えた。
「・・・ああ。俺、ちゃんと強くなるから。ちゃんと、助けられるようになるから」
背中を向けていたマナはこちらに向き直り、瞳を潤ませながら、それでも笑顔で言った。
「うん。期待してる」
約束というには、あまりにも幼く、拙い。
だがそれが、俺を強くしてくれたのだ。
今思い返すと、この時からどこかマナの様子はおかしかった様に思う。
子供だった俺は、そんな事に気付くことも出来ず、ただ約束を果たす事だけを考えてきた。
でも。
だから、こそ。
「少しでも手掛かりがあるなら・・・。俺は行くよ。例え何かの罠だったとしても」
親父は腕組みをして深く息を吐く。
「・・・わかった。だが、一つだけ条件がある」
指先をクイと動かし、耳打ちをする。
「・・・?親父、それはいったい何のために・・・?」
「いいから。これだけは欠かさずやれ。いいな」
その有無を言わせない力強い言葉に、俺は静かに頷く事しかできなかった。
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